めちゃくちゃふざけながら勉強している楽しそうな寺小屋の絵は面白いことは面白いが、一時期、流行った自由教育や自由保育が学級崩壊の遠因となり、学力低下にもつながったのと同じように、それだけで学力がついたとも思えない。
寺子屋の選択は親の自由だから、良い寺子屋を選ぶのが当然で、それなりの能力アップの工夫があった筈だ。あるいは寺子屋が子弟を選ぶこともあったかもしれない。
日田の咸宜園に全国津々浦々から塾生が集まったのも、卓越した教育システムが評判になったからだと思う。ここでは能力主義であった。
「日本人の集団性」は国家戦略として作られたと決めつけるのもどうだろうか。そんな簡単に民族性やら国民性が作られるとも思えない。
教科書に「往来もの」という手紙の様式を使うというのは実用的だ。手紙の型を徹底的に叩き込むことによって、応対を覚え大人の社会に適応していくのは良い方法だ。実際、大正生まれの人たちのハガキなどはある型をもっており、かつ伝えるべきところも押さえている。字もうまいし達者なものだ。
戦後教育のように、自由に書きなさいと言われるほど難しいことはない。
田中先生のいうように大学生が自由な議論をしていくのは良いと思うが、何事も守破離である。
まず、学ぶべきは型であると思う。
(以下、産経新聞【ちょっと江戸まで】12月29日から転載)
■寺子屋の教育取り戻せ 法政大学教授・田中優子
渡辺崋山その他によって描かれた寺子屋(手習い)の絵がたくさん残っている。絵を見て驚くのは、寺子屋は、そもそも学級崩壊しているという事実だ。いや「学級のまとまり」という概念がないのだから、崩壊もない。なにしろ子供たちは先生を見ていない。今の学校のように机を整然と並べて全員が黒板と教師に顔を向けている、などという事例は皆無。子供たちは入学時に持ってきた自分の机を自分の好きなところに置き、めちゃくちゃふざけながら勉強している。とても楽しそうだ。
教科書は出版社が刊行している「往来もの」を使う。往来とは手紙のことで、手紙の様式を覚え、手紙文を通して読み書き能力を獲得する。最初に身につけるべき能力が手紙文だということはコミュニケーション能力が重視されている証しである。教科書は往来ものや算術など何種類かあり、それらを個々の生徒ごとに組み合わせる。つまり寺子屋教育とは個人教育なのだ。個人教育が集団教育に変わってゆくのは、近代の学校制度になってからである。
教壇に教師が立ち生徒が教師の方に顔を向ける教室の配置、行進の練習、集団生活を身につける修学旅行などは、日本人の「近代化」のために作られた。江戸の日本人は他人と歩調を合わせて歩いたり、同じ態度を統一的にとることなどできなかったのである。「日本人の集団性」は国家戦略として作られた性質なのだ。
武士の子弟は町中の寺子屋ではなく、藩校や漢学塾で学んだ。読み書きや四書五経を学ぶわけだが、「学問とは何か」もたたきこまれる。学問とは、生活技能を身につけることではなく、思想を鍛えることであった。それは高等教育機関である塾に進めばなおさらである。庶民でも武士でも、さまざまな方法で学問にいそしんだ。つきたい師がいれば入門し、住み込みで学んだ。塾は数が少なかったが、寺子屋は町や村に増えていった。村には複数の寺子屋があり、江戸の中心地であれば女子のための寺子屋もあった。教師はほとんどの場合、別の収入で生活の基盤を持っており、その上の寺子屋経営であったから、束脩(そくしゅう)と呼ばれる謝礼を払えなければ、それはそれでよかったようだ。
義務教育制度はなかった。大人にはすべての子供に教育を受けさせる義務がある、という考えは、近代日本の画期的な発明である。しかしそのかわり、集団教育にならざるを得なかった。欧米に追いつき追い越し産業や経済を上昇させる、という目的が優先され、個々が思想を鍛えるという学問の目標は失われた。今こそ、それを取り戻す時代に来ている。せめて大学では、寺子屋や塾のように、少数で議論を重ね自分の言葉を磨いてゆく授業をやりたいと、私もさまざまに試している。
「学びて思はざれば則ちくらし、思ひて学ばざれば則ちあやふし」という『論語』の言葉がある。学問の神髄だ。このような思想の育て方を柱にした学問の理念は、かつて中国を中心とする東アジアが共有していたものだった。日本も中国も韓国も、今はそこから遠い。もう一度東アジアがともに、漢字漢文を基礎とした思想と教育の原点を見つめ直す時期に来ている。(たなか ゆうこ)